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チョンブリ・ラヨーン日本人会(CRJA)の活動について

怒和 邦善

CRJAでは、2007年にC2地区(Amata City)の地区委員、2008年に副会長、そして2009年から、会長として活動をしている。
地区委員・副会長時代は、泰日協会学校シラチャ校の開校に向け、寄付金を集めたり、学校設立委員会に参加し、日本人学校の開校準備に当たった。
2009年1月から会長職に就き、現在に至る。

 私が最初にタイに来たのは、1992年9月。
5年間のバンコクでの業務を終え、シラチャに来たのは1997年9月。
当時のシラチャは、本当に静かな街であったことを記憶している。
丁度、Pacific/ロビンソンが建設中で、ソフトオープンを迎えようとしていた。
シラチャナコンのSoi4からSoi7には、まばらに建物が立っており、空いた土地の赤土が多く、『海が見えるのではないか?』くらい、閑散としていた。
それから17年経った今、多くの日本人が暮らし、多くの日本人向け飲食店が並び、昔の姿を思い出すのが難しいくらい、シラチャの街は大きく変貌した。
過去8年間、ボランティアとしてCRJA活動を続け、色々な方と巡り合い、色々な経験をすることが出来、非常に嬉しく思っている。

2009年6月25日、シリントン王女を迎え、泰日協会学校シラチャ校の開校式典が執り行われた。
多くの参列者の中、当時のシラチャのテサバーン長(Chatchai氏)と話す機会があり、「これからシラチャには家族が増えるだろう。タイ人と日本人が共同する街づくりが求められる。そのためには、コミュニティ活動が重要となる。」といった話をした。
CRJAとして、「コミュニティ活動に力を入れて行くこと」について、CRJA総会で了解を取り、『シラチャ日本祭り』をコミュニティ活動の柱としようと考えるようになった。
過去5回の『シラチャ日本祭り』は盛大に行われ、今ではシラチャの一大行事になっていると考える。

以前のCRJAは、企業色が強く、当地で働く企業人のため、経営・安全・労務関連に力を入れて活動をしていた。
この活動を継続し、且つコミュニティ活動を盛んにしていくには、多くの運営委員の方々の並々ならぬ協力が必要であった。
ボランティアとして、CRJAの運営委員をされた方々に対し、改めて、礼を述べたい。

日本人の住みやすい街ということで、日本人の安全確保にも配慮した活動を取ってきた。
2010年暮れに、日本人がタイ人の暴漢に襲われるという事件が発生した。
これを受け、シラチャ警察の評議会に毎月参加し、『日本人の安全の確保への協力』を訴えてきた。これは2013年末までの3年間継続してきた。
この活動により、警察によるパトロールも増え、警察との人間関係も構築でき、最近では日本人が事件に巻き込まれたとの情報も無いため、『安全な街づくり』の一助になったものと考えている。

チョンブリ・ラヨーン地区の日系企業を主体に出来るだけの支援をし、ここで暮らす日本人のためのコミュニティ活動をし、『安全な街づくり』を進めて行くため、これからもCRJAは日々の活動を展開していくことが、当地における日本人会の目指す姿ではないかと考えている。

今回、初代会長の佐伯様、川島様、戸田様、西田様と歴代の会長から、CRJAへの思いや、思い出について寄稿して頂いた。
これを読み返すと、歴史のある日本人会になりつつあるなあと、感じている。
1998年2月、チョンブリ・ラヨーン企業連絡会としてスタートした当会は、2003年にチョンブリ・ラヨーン日本人会と改称し、その活動も17年目を迎えた。
これからも多くの方々に支えられ、20年、30年とその活動を継続して貰いたいと考える。

2014年6月27日

     

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