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(チョンブリ・ラヨーン日本人会 寄稿)

寄稿に当たって
チョンブリ・ラヨーン日本人会は発足以来5周年を迎えられるとの事、この地区の目覚ましい産業の発展と合わせ実に喜ばしく、過去にイースタンシーボード工業団地で仕事をし、シラチャ、パタヤで生活した者として心よりお祝いを申し上げます。
私は、1995年から2003年までの8年間をタイで過ごしましたが、その間、今日のチョンブリ・ラヨーン日本人会の前身ともいえる同地区の日系企業連絡会の会長を務めた縁も有り、此度、会報への寄稿の依頼を受けた次第です。

 チョンブリ・ライヨン日系企業連絡会というのは、2000年前後に、この地区の日系企業が増えて来た事もあり、経営や日本人赴任者の安全管理等に関連する有意義な情報の共有を図り、また日本人同士の交流の場を持とうという趣旨から設立されました。
年に一、二度、シラチャ・シティーホテルの会議室で例会を持ち、タイの日系企業で長年に渡り労務問題に取り組んで来られた専門家や日本大使館の治安領域の専門家を招いて講演会を催したり、賃上げやボーナス支給額に関する統計データ等を配布して労務環境の勉強をしていたように思います。一度は、会員の知り合いという事で、往年の阪神タイガースのスター選手だった田宮健次郎さんに講演をして貰った記憶も有ります。


ゴルフのコンペも、多くの方々の参加の下で年に一度くらい開催していました。レムチャバン・カントリークラブでのプレー後に表彰式に出席し、成績優秀者へカップや商品をお渡しした事を覚えています 。


とは言え、今振り返れば、この地区の日系企業活動の黎明期ともいう時代でしたので、組織も緒に就いたばかりの手探り状態だったように思います。今日、チョンブリ・ライヨン日本人会という形で日本人学校まで設立され、組織運営がなされている事を伺うと、そこへ至るまでの過程を繋いでお世話をされて来られた方々に心より敬意を表する次第です。

ご依頼に応じて、1995年から2003年までの8年間、その大半をイースタンシーボード工業団地で仕事をし、シラチャ、パタヤで生活した私のタイ滞在・回顧録を以下に纏めてみたいと思います。

オートアライアンス・タイランド社 元社長(初代)
佐伯 俊秀

 

回顧録
“タイ/イースタンシーボード・シラチャ・パタヤでの8年間”
1995~2003

はじめに

1995年4月、タイにマツダとフォードがピックアップトラックのグローバル市場向け生産・供給拠点としての合弁会社を設立する事となり、その社長に任命された時から私のタイとの付き合いが始まりました。


8年間もの米国勤務を終えて帰国し、一年を経過して、やっと新たな職務の世界に面白さを感じ始めた矢先でしたし、私生活では広島での生活を再構築すべく自宅の建て替えを進めていた時期でもありましたので、伝えられた新たな任務は実に青天霹靂と言うべきものでした。しかし、そこは宮仕えの身、新たな挑戦に胸を膨らませる気持ちへと切り替えるのに、大した時間は掛かりませんでした。そして、1995年5月には正式な辞令を受け、未だペーパーカンパニーであったオートアライアンス・タイランドの社長としてタイでの活動を始めたのです。

マツダ自体は早い時期からタイでの自動車生産に取り組んで来ていたのですが、その会社とは一線を画し、タイで初めて仕事をする日本人、アメリカ人、イギリス人、ドイツ人、オーストラリア人、タイ人等からなる新たな国際混成チームを作り、いわば白紙に絵を描くが如き気持ちで合弁プロジェクトへの取り組を始める事となりました。私がこの任務に就いた背景には、先駆けて2年間、米国・ミシガン州にて、フォードから派遣されたメンバーと一緒に合弁会社経営に携わった経験を買われたという事情が有ったようです。

オートアライアンス・タイランドは、ほとんど更地に近かったイースタンシーボード工業団地を建設サイトとして選び、1995年の半ばから建設工事に着手しました。当初、私自身はバンコックの仮事務所を本拠にしながら会社設立、管理・調達部門の体制整備に取り組み、定期的に工場建設サイトに近い現地事務所を訪問しておりましたが、1997年の初め頃には住居をシラチャに移してイースタンシーボードでの本格的な稼働準備活動を始めました。私達が建設工事を進めていた頃のイースタンシーボード工業団地は、広大な原野の整地が進められ、草木をはぎ取られた赤褐色の工場建設用地が見渡す限りに広がっているといった状況でした。国道331からアクセス道路に入り、延々と続くパイナップル、タピオカの畑、ゴムやユーカリの林を眺めながら進んだ先に突如として現れるその景観に接すると、これから取り組もうとしていた挑戦を思い浮かべて武者震いをしたものです。

当時のシラチャでの生活は、その前に1年半を過ごしたバンコックと比べると何かと不便なもので、住居を探すのも一苦労、食事も限られた店で食い繋ぐといった状態でした。
もっとも、パタヤまで出掛けると国際観光ホテルが多く、その中には西洋料理、中華料理のレストランは沢山有りましたから、そうした店で時々は美味しい物をという欲望を満たしておりました。この時期、イースタンシーボード地区でビジネスに関わった欧米人の方達は、パタヤという街の存在から、生活面で不自由や不満を感じる事は余り無かったのではないかと思います。もっとも、そのパタヤにも、日本料理に関しては評判になるような店は無かったように思います。

1997年の半ばにはオートアライアンス・タイランドの工場建屋や事務所も完成し、工場のあちこちで設備、機械の試運転や調整を行う段階になっていました。一方では、タイ人従業員の採用面接活動、あるいは、先行採用した従業員の教育・訓練等が盛んに進められていました。そんな7月の初め、タイの政府が、自国通貨バーツを米国ドルに対して固定レートで維持して来ていた通貨政策を突如として変更し、変動相場制へと移行する旨の発表をしたのです。いわゆるバーツ・ショックの始まりです。東南アジア諸国や韓国などへ波及したこの出来事から、私たちは全く予期していなかった新たなビジネスの展開、課題への挑戦を強いられるところとなりました。

バーツの海外通貨に対する急激な価格低下、海外から入って来ていた資金の逃避、国内における資金不足、短期金利の高騰、国内消費の停滞、等々、1997年7月以降の数か月のうちに国内経済には激震災害の如き影響が出ました。自動車関連産業、その他の産業を含めて、大変に厳しい対応を迫られところとなり、ビジネス社会において様々なトラブルや変化が生じた事を思い出します。

このタイ経済の苦境から、何とか回復の兆しを感じ始めるまでに3年くらいの期間を費やしたと記憶しております。自動車産業に関しては、2001年頃から、それまでの国内市場中心のビジネス構造を改め、各社がタイをグローバル市場向け車両の生産拠点へとシフトする戦略に取り組み始め、この流れが、その後の10年近い期間に渡るタイの産業発展に大いなる貢献をする事になりました。

私共のオートアライアンス・タイランドは、タイにおける後発メーカーの立場もあって、企画段階から、国内市場向けと輸出市場向けピックアップトラックを合わせて作る計画としておりました。そのため、輸出に関してはバーツの下落が追い風になる側面が有り、全体的にはメリット・ディメリット相半ばといった立場ではありましたが、それでも事前のシナリオとは異なる様々な対応を迫られた事を思い出します。

2003年にタイを離れた後も、その後の仕事の縁も有って年に数度のタイ訪問を続けており、滞在中は出来るだけ週末をシラチャ、パタヤ周辺で過ごし、イースタンシーボード工業団地周辺の様子も眺めに出掛けております。

その度に、イースタンシーボード、アマタシティー等の工業団地の引き続きの活況、へマラ、ピントン等の新しい工業団地の登場と発展に接しますと圧倒される思いがします。また、国道331沿いのボーウィン周辺を埋め尽くす各種商店やアパート群、そして各工業団地へのアクセス道路沿いの畑や樹林を切り拓き、整地して建てられた倉庫、工場、あるいはアパート、商店群を見ますと、約20年の歳月を経る間に、この地区がタイにおける大工業地帯に成長して来ている事を感じさせられます。

シラチャの街も賑やかになりました。20年ほど前には、ロビンソン・デパートも未だ無く、街中には建物は有ってもシャッターの閉まった所が多くて、バブルの影響の無謀な先行投資かなどと思いを巡らしたものですが、今日の繁栄を見ると信じられない思いです。先日、街中のケープラチャ・ホテルに泊まりましたら、ホテルの前のシンボルのような存在だったナイトバザールが完全に撤去されていました。ホテルの従業員に聞いてみても、跡地に何が出来るのか未だ定かではないようでしたが、何らか大型の施設でも建設されるのでしょう。街中の路上を埋め尽くす不法(?)駐車の車両群を眺めながら、この街はこれからどの様に変わって行くのであろうかと暫し思いを巡らせた次第です。

 

〈 イースタンシーボード/シラチャ/パタヤ 〉
1995年から1996年にかけての一年間余りの期間、バンコックの仮事務所を本拠としながら、週に一、二度、片道2時間半くらい掛けながら建設工事中の工場サイトや国道331沿いに有った仮事務所を訪ねておりました。

当時、バンコック市内からイースタンシーボード方面へ出掛けるには、現在の2層構造になっているバンナ・フリーウェイは未だ存在しておりませんでしたので、古くからの地上部分をフリーウェイとして利用していました。立体交差のUターン路も存在していませんでしたから、フリーウェイから右方向へ出るためには、一旦路上でUターンをして反対車線に移る必要があり、高速運転と相まって実に危険極まりない道路事情でした。バンコックから工場サイトまで往復すると、必ず2、3件の大きな交通事故を目撃し、その都度、明日の我が身を案じながら、安全運転を心掛けるよう運転手に請うたものです。その頃は、駐在していた日本人やその家族がこうした事故の巻き添えとなる事も珍しくなく、亡くなられたケースも多々有ったように聞いております。

東南アジアには馴染みの無かった私にとって、バンパゴンを過ぎた辺りから窓越しに見え始めるヤシやバナナの木々、ゴムの樹林、パイナップルやタピオカ畑といった景色は実にエキゾチックで野趣に溢れて映り、やがて始まろうとするビジネスでの挑戦に対する緊張を心地良く和らげてくれたものです。もっとも、工場サイトが近付くにつれ、国道331から工業団地まで延々と続く支線道路は未だ整備が完了しておらず、スコールの後には水溜りと泥濘が乗用車でのアクセスを妨げるため、サイト専用に配備していた4輪駆動車に迎えに来てもらう事も度々で、この地区の原野と田園地帯の道路事情も十分に経験させて貰いました。
当時、イースタンシーボード工業団地は、その殆どが未だ切り拓かれたばかりの広大な工場用地といった状態で、その入り口付近にこの団地の最初の住人となられたオートバイ用鍛造部品のナカタンさんと、鋳物用コーテッドサンドのツチヨシさん等が仕事を始められていた状態でした。これから建設されようとする工場群を待つ赤褐色の広大な用地と、その周辺に起伏を持って広がっていた田園地帯の光景は、実に雄大でロマンを感じさせてくれた事を思い出します。

近年、この地区を訪れてみますと、新たに切り拓かれた工業団地が増えて来ている様子や、ボウィン地区の国道331沿いに多くの商店やアパート等が建て込んでいる様子に驚きます。また、以前には田園風景を見ながら進んだ国道331からイースタンシーボード工業団地への支線道路沿いの土地にも、物流施設、工場、アパート等が立ち並び、もはやパイナップルやタピオカの畑を見つけるのが難しくなりました。レムチャバン・カントリークラブ、ブラパ・ゴルフクラブから国道331へ抜ける地域の開発も加速していますが、完成しつつある施設の内容を見ますと、海外からの赴任者をもターゲットに入れた高級居住地区が出来上がりつつあるようです。間もなく、この地区は、職住一体化した一大工業都市となって行くのでしょうか。

私にとって、当初、日本から赴任して来る250人近いメンバーと家族達のため、宿舎を始めとする生活環境を調査し、必要な準備をする事が一つの大きな課題でした。そのため、シラチャ、パタヤ地区を度々訪問したものです。

その時期のシラチャはロビンソン・デパートも未だ無く、日本人が安心して住めるようなアパートも限られており、日本料理が食べられる店は“擬き”を加えて2、3軒、洋食や中華の気が利いた店が有る訳でもなく、カラオケも数軒といったところでした。また、現在でもレムトン・ホテル&アパートは存続しているようですが、当時、隣接してレムトン百貨店という店が有り、地下フロアーが食材売り場だというので出掛けてみましたが、ガラス張り冷蔵ケースの中には種類、量の乏しい肉、魚が並べられているだけで実に寂しく、家族同伴者達の日々の食材調達について不安を感じた思い出が有ります。

もっとも、後日、タイの知人に地元の人達が食材を調達する市場へ連れて行ってもらうと、そこでは新鮮な食材が豊富に売られておりました。タイ人と同様に市場へ出掛け、現地の売り手と遣り取りしながら豊富で新鮮な食材を購入出来るよう、奥さん方に早く順応してもらう指導が必要と認識したものです。1997〜’98年当時にシラチャで生活された奥さん方は、食材の購入のため日々この市場を利用し、時々は週末を利用してバンコックへ出掛け、日本食材を買い求められたと思います。

新鮮な食材という事で思い出すのが、シラチャのコーロイへ渡る道沿いで早朝に荷揚げしていた漁船です。週に何度か朝の早い時間に、何艘もの漁船が釣果を道の上に荷揚げし、魚の仕分けをしていたのですが、傍で目ぼしい魚を見つけて何匹か差し出すと100バーツ前後で分けてくれたものです。まだ動いているタコやイカ、アイナメやコチ擬き等を分けて貰い、その日は自宅で魚料理を堪能したものです。今日でも続いているのでしょうか。
シラチャに、日本人赴任者向けのアパートが建ち始めるようになるのに、然程の時間は掛かりませんでした。私達がシラチャに住み着いて間もなく、現在のカンタリーベイ・アパート(当時は、カナリーベイ)が完成しました。

この施設のオーナーであるティラポンさんとは、バンコック時代にご縁が始まり、その後もお付き合いが続きました。私がまだバンコックにいた時分、大きなお宅へ招かれて御馳走になり、彼がシラチャで日本人赴任者向けのサービスアパートを建設、運営して行く計画についての相談を持ち掛けられたのが切っ掛けでした。私はその種のビジネスに見識が無かったのでコメント出来る事は多くはなかったのですが、単身赴任者向けのアパート&ホテルというコンセプトで1ルームのスタジオ・タイプばかりだった計画内容を、家族帯同者をも想定して2ベッドルーム・タイプを併せ持つ計画に変更するようアドバイスした記憶が有ります。

このカンタリー・ベイ・アパートメントの経営は大成功で、その後、彼はシラチャ地区にケープ・ラチャを始めとして幾つかの同様な施設を追加し、さらに他の地区でも同様なビジネスモデルを拡大展開し続けています。最近でも、バンコックのランスアン通りに在るケープハウスに宿泊すると、時々、お眼に掛かって言葉を交わす機会が有ります。その都度、記憶を遡りながら懐かしい思いに浸ります。

彼のシラチャでのビジネスが軌道に乗るのと並行して、街は目覚ましく発展し始め、年々眼を見張るスピードで拓けて行きました。ロビンソン・デパートが間もなく開業し、食料を含めた日用品の調達が飛躍的に便利になって、特に家族同伴の方々の生活が楽になったと思います。

私がシラチャを訪ね始めた1995年頃から、現在のロビンソン・デパートの裏側に何列か存在するタイ独特の3、4階建て長屋構造の店舗群や、スクンビット道路沿いの同様な建物が既に存在していました。けれども、シャッターが閉まって使われていない遊休建物と見受けられるものが多く、何となくうら寂しさを感じ、同時に、この国の不動産投資事情に不可解な思いを持ったものです。

その後にバーツショックが起こり、上記のような不動産は資金供給過剰の環境下で生じた一現象だったのか等と解釈した訳ですが、2000年頃から景気の回復とともにシャッターを開けて商いを始める店がぼつぼつと増え始めました。今日では、日本食店やカラオケ店を始めとする様々な店子が商いを競っています。近年、シラチャを訪問する度に、街を散歩してこの様子を見て回るのですが、実に感慨深く、まさに隔世の感に浸る思いです。

 同じ時期のパタヤは些か状況が違っていました。ベトナム戦争が続いた時代の米軍の保養地であった歴史もあって、当時の流れを残した赤や青の灯を燈す風俗酒場が多く、街中には近寄りがたい雰囲気が漂っていましたが、数多くの国際リゾートホテルや付随する施設は日本人や欧米人等の感覚からしても十分なレベルを既に備えていました。ホテルの内部や周辺のレストランは、フランス、イタリア、ドイツ、ロシア、インドあるいは中華料理を提供しており、私達の食欲を十分に満足させてくれるものだったと思います。もっとも、この時期、日本食に関しては別で、寂れたような店が数軒有ったのみでした。プーケットあたりが有名になる中で、パタヤを訪問する日本人観光客が少なくなって来ていた時期だったという事でしょう。
繁華街を少し離れた地区に建設されたコンドミニアムは良い施設とセキュリティーを備えており、欧米人、経済力の有るタイ人、そして日本人が混在した形で住んでいました。高い位置から見るパタヤビーチの景色はなかなかの絶景ですし、併設しているプールなどの施設を使って楽しめば日々リゾートライフといった気分を味わえる環境でした。また、ホテルへ宿泊する観光客やコンドミニアム、アパートで生活する諸外国からの住民を対象に、彼らが求めるような生活用品や食材を扱う店も結構有りましたので、そうした点ではシラチャよりかなり生活環境は先行していて、欧米での生活に近い感覚で過ごせる環境にあったとも言えます。

私が初めてパタヤ周辺を訪問した1995年後半頃、パタヤビーチの北のナックル―ア、南のジョムティーエンの海岸沿いには、カーテンが掛かっておらず、夕暮れになっても明かりが点かない空き部屋を多く抱えた高層リゾート・コンドミニアムが何棟も建っていました。こうした物件の幾つかを、初期の調査段階で訪問したものです。いずれも、そこに住んで日々仕事に通うという生活を考えると立地的に不便な点はありましたが、自然環境、施設内容等では素晴らしい物でしたから、それらが使用されずに放置されているという事が不思議に感じられたものです。

その時期、関係者が説明してくれたところでは、上記のようなコンドミニアムの各ユニットの多くは、インフレ基調の続いた1990年代の不動産投資ブームの流れで個人投資家が購入しており、値上がりを待って売却する対象であり、実際に住む心算は無いので内装工事等を終えていない物件が大半だという事でした。調査段階で、借りてくれるなら残工事を済ませて提供するという家主も結構いましたが、未だバーツショック、バブル崩壊が始まる以前の事で、貸し手も価格面で強気なため折り合わず、また個々人の家主との調整が大変という事情なども有って、こうした物件を検討の対象外にしました。

そんな流れの中で、1997年7月にバーツショックが発生し、不動産価格の暴落が始まりました。売却機会を逃した投資家達が如何に対応したのか定かではありませんが、多くの部屋にカーテンが掛からず、夕闇が迫っても明かりが灯る事の無い高層海浜リゾート・コンドミニアムは、その後も長らくその奇妙な姿を晒し続けるところとなった次第です。2000年代中頃からは、海外の投資家が避寒目的のセカンドハウスとして購入している等との噂も聞きましたが、今日ではどの程度様子が変わって来ているのでしょうか。

最終的に、マツダからの派遣者と家族については、初めて海外生活をする方が多いという事を配慮し、互いの連絡、助け合いのために出来るだけ近い居住区に集中して住んで貰う方針としました。そして、そうした環境の確保に取り組み易かったシラチャ近辺を居住区として選んだ次第です。

一方、同じプロジェクトにフォード側から参画した欧米人達は、彼らの考えに沿って私達とは異なる二つの選択をしたのです。都会的生活の便利さを求めるメンバー達はパタヤのコンドミニアム、静かでプライバシーを保てる生活環境を求めるメンバー達はブラパ・ゴルフクラブの中の個別住居での生活を選びました。
初めて経験する海外の地で、多くのメンバーが大きなプロジェクトに取り組むといった状況下で、落伍者を出さずに皆が力を発揮して頑張るため、出来るだけお互いが寄り添い、助け合って行く事を大切と考える日本人と、個々人のプライバシー確保、嗜好の尊重といった事を優先して考える欧米人のメンタリティーの違いを、国籍混成の経営メンバー間で互いに認識し合った出発点でした。

<バーツショック到来前後>
1997年7月2日、タイの通貨当局は、それまでバーツをUSドルに固定連動させてきたペッグ制を止め、変動相場制に移行する事を発表しました。同年の5月半ばに、国際収支の面からみて背伸び気味になっていたタイの財政事情を見透かして、米国のジョージ・ソロス達に率いられたヘッジファンドが為替市場においてバーツを売り浴びせ始め、当初、タイの通貨当局は外貨準備を取り崩して懸命に買い支えていたのですが、ついに外貨準備が底をついて持ち堪えられなくなり、この結果となったわけです。

当時のタイの英字新聞に、タイの軽量級ボクサー( Pegという名前 ? )がマイク・タイソンに似た米国のヘビー級ボクサーからパンチを浴びせ続けられ、TKO寸前のフラフラになったところで、タイ側のセコンドが“Floating”と書かれたタオルを投げ入れる風刺漫画が載せられていたのを思い出します。

海外の投資家がタイへ持ち込んでいた資金は競って引き揚げられ、信用を失ったバーツが急速に低下する中で、国内経済は極端な資金不足現象下の不況へと落ち込んで行く事になりました。

まず為替レートについては、固定レートの頃に24.5バーツ/$であったものが、同年12月から翌年1月にかけての底の時期には56バーツ/$を記録し、円とバーツの関係も、4.7〜4.8円/バーツであったものが2.2円/バーツくらいまで下落したのです。

世の中の資金不足に関連して、私が関係した自動車産業においては月賦販売のローンが機能しなくなり、わずかな台数を買ってくれるのはキャッシュ購入が可能である裕福な顧客のみといった状態となりました。そのため、本来なら農業、商業従事者が顧客の主体で、通常は廉価モデルの比率が高いはずのピックアップトラック販売で、高級仕様である四輪駆動でエンジンはターボチャージャー付きといったレジャー目的のモデルばかりが売れるといった珍現象に遭遇したのです。いずれにしても、国内販売は壊滅的な状態となり、年間販売台数に関しての底となった1998年度はタイの自動車産業全体で14万台強、1996年度の1/4程度まで落ち込みました。

 また、当然の事として銀行からの資金調達が難しくなり、市中銀行からの短期の借り入れの利子が20数パーセントといった信じ難いレベルまで上がる事となりました。売り上げが急激に低下する中、多くの企業はキャッシュフロー上の危機に遭遇するところとなり、一方で資金調達難という事から、日系企業の多くはアジア通貨危機の影響を然程受けていなかった日本の親会社から資金援助を受けて当座を凌ぎました。

 1998年に底を打ったタイの経済は、日系をはじめとする自動車・部品産業の輸出ビジネス拡大への戦略シフトに支えられ、バーツの下落から来る輸出競争力向上効果もあって、次第に回復へと向かい始めました。2001年頃には景気回復のトレンドを確信できるようになりましたが、その後の2002年から2006年頃にかけて、日系自動車メーカーが、それまで日本で生産し輸出していたピックアップトラック・ビジネスを完全にタイへ集約シフトするところとなり、これがタイの自動車産業、タイ経済の発展に大きく貢献するところとなりました。

 バーツショックは、身の回りの身近な知己にも色々な影響を及ぼした事を思い出します。
1997年当時、オートアライアンス・タイランドには200名を超える日本人が出向して来ており、家族同伴で赴任して来ていたメンバーも数十人はいました。当時のイースタンシーボード地区には日本人学校が有りませんでしたし、タイの現地校へ入学させるのも前例のない事でしたので、フォード側からの出向者の家族も含めて、学齢期にある子弟にはブラパ・ゴルフクラブの中に在ったインターナショナルスクールへ通って貰う事にしました。
私立のインターナショナルスクールですので結構な入学金と授業料が必要でしたが、これらは会社負担という方針にしたのです。ただし、社内の仕組み上、一旦は当事者が支払った後に会社へ求償し、給与支払い時に払い戻しを受けるというルールとなっていました。
品質部門の責任者として6月に赴任してきたS 君には二人の学齢期の御嬢さんがおられたので、入学に備えてシラチャのバンコック銀行の支店に口座を開き、入学金立替えに必要な100万円を超える金額を預金したようです。当然、当時の4.6円/バーツくらいの為替レートでバーツに換金して貯金したのでしょう。そして、7月の初めに二人の御嬢さんの入学金として、100万円に近い金額に相当するバーツを納付したそうです。

ほぼ同じ時期にバーツショックが起こり、バーツの円に対する交換レートはみるみる下落を始めました。彼自身、暫くの間は、身に降りかかった不運を良く理解していなかったようですが、やがて事の次第が分かって来ると、数週間遅く事を進めていれば何十万円もの日本円を節約出来ていたという事を嘆いたものです。

もう一人の友人であるTさんは、広島で事業を手掛けておられる方ですが、私がタイと関わりを持つ以前から年に数度のタイへの休暇旅行を楽しんでおられました。タイ好きが高じて、1996年にはバンコック市内に日本円にすると3,000万円位するコンドミニアムの一室を購入したようです。本人いわく、投資目的が半分、将来の仕事を辞めた後の別荘目的が半分といった思惑だったそうです。

年に数回のタイ訪問はバーツショックの後も続き、その都度お会いして食事やゴルフを一緒に楽しんだのですが、そうした機会の度に、前述のコンドミニアムの部屋の価値が1,000万円まで目減りしたとか、1,500万円まで戻ったといった話題が当分の間は続きました。当方は聞き役ですから気楽な立場で、物件その物の中身は変わり無い訳だし、相変わらずタイへ来てゴルフに食事、ナイトライフも楽しみ続けているのだから良いではないかと慰めたものです。数年するとこの件を話題にする事も無くなり、Tさんのタイへの休暇旅行は相変わらず続いています。

バーツショック以前にビジネスでタイへ赴任していた方達の中には、Tさんと同様に、コンドミニアムやゴルフ場の会員権を購入していた方が多くおられたようです。その後に帰国が決まって身の回りの整理という段階で、バーツの下落と売買市場の冷え込みのダブルパンチゆえに、売却すると円ベースでは大変な損失になるという事から処分出来ず、友人に管理を依頼して帰国されたケースを何件か知っております。15年近く経過した今日、私の友人の一人は退職後の人生の半分をタイのそうしたコンドミニアムで過ごしていますし、他の友人は年に数度タイを訪問し、持ち続けたゴルフ場の会員権を活用してプレーを続けています。

バーツショック後のタイ経済は低迷を極め、各産業領域での操業度の低下は惨憺たるものでしたから、経営に携わった方々の財務面、労務面での心労は大変な物でした。しかし、私生活へ眼を向けると些か様子の異なる側面も有りました。

つい先日まで1バーツが4.5〜4.7円位だったのが急に安くなり、あっという間に3円を切り、半年後には2.3円まで下がった訳ですから、円に換算しながら生活していると、食事代、のみ代、ゴルフのプレー費等が何もかも半額セールの世の中になった様なものです。日本からの出張者の中には、着替え等は持たずに出掛けて来て、到着後にロビンソン・デパートあたりへ出掛けて買い揃え、帰国時には持ち帰るといった連中もいました。また、欧米からの出張者の中には数日間の滞在の内にスーツを数着仕立てて持ち帰るなどという連中もいました。然程に何もかも安い世の中になったのです。

こうした側面も相まって、個々人の生活においては、バーツショックという17年前に起きた出来事は、時間の経過とともに殆んど風化して来ているように感じます。

 ビジネスの話に戻って、私が関わった自動車・部品産業においては、日本企業とタイ現地資本との合弁としてきた発展してきた企業形態に、バーツショックが大きな変革をもたらしたと考えています。

小規模なノックダウン組立ビジネスから始まり、タイ政府の自国産業育成、工業化推進の方針に沿った様々な政策・規制の下で発展してきた自動車産業、部品産業においては、バーツショック以前、現地資本が合弁会社のマジョリティー・オーナーシップを持っていたり、議決権相当分の株を持つといったケースが多々見られました。一方において、日本側の企業は、タイ現地法人が成長するにつれ、グローバル戦略の一環としてこの会社を位置付けたいとか、連結経営ベースに組み込みたいとかの理由から、経営の舵取りの主導権を持てるレベルまで持ち株比率を増したいという願望が強くなって来ていました。しかし、それまでの経緯を振り返れば、現地資本側にも言い分が有る課題ですから、双方お互いに簡単には譲り合えない状況にあったと思います。

そんな中で突如として起こったバーツショックは、販売が低迷して操業度が落ち込んだ現地合弁会社に膨大な繋ぎ運転資金注入の必要性が生じるところとなり、双方の親会社はその手当を工面せざるを得なくなりました。この時点で、日本側の親会社の方はバーツショックの影響を左程受けていませんでしたが、タイ側の親会社は自動車関連以外の領域を含めてまともに影響を受け、親会社そのものが同様な問題を抱える状況に陥っていたわけです。結果として、この難局を乗り切るための資金注入に対する能力の差から、多くの日本の自動車メーカー、部品メーカーが増資の過程を経て持ち株比率を大幅に増やし、経営の主導権を握る事に繋がりました。

これは、決してタイ政府が望んでいた成り行きではなかったと思います。しかし、日本の自動車メーカー、主要部品メーカーがこの時期に経営主導権を確立出来た事が、その後に、タイの現地法人を車両や部品のグローバル市場向け供給拠点として行く取り組みを早めたと思います。そして、タイという国は自動車および部品の輸出国へと急速に変貌を遂げて来ました。
2000年代の10年間のタイの国の経済、そして自動車産業、部品産業の変革、発展の経緯を振り返ってみますと、不謹慎な表現かもしれませんが、バーツショックというのはタイの国家経済と産業の構造、自動車および部品産業の構造に革命的な速度での変革を促してくれた神風であったように思われます。

〈 食事・旅・ゴルフ 〉
仕事を離れた私生活では、人生で初めての東南アジア、タイでの生活という事でしたから、食事、旅行、ゴルフ等を十分に楽しみました。

タイ料理は、パッタイ、ヤムウーセン、トムヤンクン、エビ/蟹と春雨の土鍋煮、カレー類、麺類、等々、どれも好きですし、パクチもナムプラ―も暫く間が空くと懐かしくなります。そんな私ですが、あえて一つを挙げろと言われれば、イサーン料理の定番であるガイヤーン、ソンタム、カオニヨのセットメニューという事になります。

タイで食べて美味しいと思った物をと言われたら、フカヒレ、大シャコ、塩鰆・白粥合わせを挙げます。

フカヒレ料理そのものはタイ以外でも知られておりますが、土鍋で丸ごとトロトロになるまで煮込んだ熱々のスープに、茎モヤシとパクチを加えて混ぜながらレンゲで啜るというスタイルはタイ独特の物で、これは美味しいと思いました。

大シャコというのは、日本で寿司ネタに使うシャコの巨大サイズの物です。長さ30?、幅3? 前後という大きさで、日本のシャコとは似て非なるものに見えます。ライヨンの浜辺へ出て左方向にしばらく走ると、左手に3,4階建ての建物のシーフードレストラン(名前は?)が在り、幾つかの大きな水槽にカニ、エビ、魚等を泳がせていましたが、ここで何度か食べました。通常、魚類は大きくなり過ぎると大味になると言われ、確かにタイ、ヒラメ、アナゴ等には程良いサイズがあると思いますが、シャコに限ってこれは当たらず、塩茹でにして貰って殻を剥き、かぶり付くと柔らかく甘い身が実に美味です。最初は何も付けずに味わい、その後にピリ辛ナムプラ―をちょいと付けて食べれば最高です。もっとも、中華系の人達には良く知られた高級食材のようで、値段は結構しますので、こればかりを腹一杯という訳にはいきませんでした。

白粥に塩鰆というのは、私の友人でタイ生活20年以上に及ぶKさんが、彼のホームコースだったロイヤル・ゴルフクラブで一緒にプレーをした後、食事時にオーダーしてくれていた食べ物です。塩鰆という表現は正確でなく、鰆に塩を加えて漬け込み、発酵させた物の切り身を焼いていたのではないかと思います。日本の“くさや”程ではないのですが、その種の匂いが微かにしていました。他のタイ料理を摘まみながら、土鍋に炊き込んでくれた白粥にこれを合わせて食べるとあっさりして美味しく、お代わりを重ね、ゴルフで汗をかいた体への塩分補給にもなって元気が戻ってくる心地がしたものです。

 8年間の滞在中、バンコック、シラチャ、パタヤ周辺を中心に、様々な店を訪ねて食事を楽しみました。タイ料理はもとより、イタリア、フランス、ドイツ、インド、中華、等々、実に多様なエスニック料理をエンジョイできるのがバンコックとパタヤの魅力だったように思います。
私の会社がフォードとの合弁会社であり、欧米系の取引先も多かった関係上、欧米人とパタヤのレストランを良く利用しました。記憶に残っているのがアマリ・ホテルの裏側に在ったラグリッタというイタリアン・レストラン、ロイヤルクリフ・リゾートホテルの中に在ったザ・グリルというフレンチ&ステーキ・レストラン、南パタヤからジョムティエンへ抜ける丘の上に在ったシュガーハットというタイ料理レストラン、モンティエン・ホテルの1階のマルコポーロという中華レストラン等です。

ラグリッタの料理の中には、タイのハーブや調味料を効かせた独特な味わいのパスタ等も有り、寛いだ気持ちでワイン等を飲みながら美味しい料理を楽しめたものです。最近、この店を探してみましたが、どうも閉店したようで、跡地で別のレストランが営業していました。
ザ・グリルの方は些か構えた感じの重厚感のあるレストランで、シェフがしっかりしていたのでしょうが、料理もステーキも大変に結構な味でした。ピアノの演奏なども有り、食事の後、欧米人の連中は食後酒をチビチビやりながら葉巻を燻らせたものです。当時は、私も煙草を吸っていましたので、仲間に加わり紫煙を燻らせながら歓談を楽しんだのも懐かしい思い出です。

シュガーハットというのは、丘の上の林の中に伝統的なタイの高床式家屋を点在させ、そこでタイ料理を食べさせてくれるレストランでした。訪ねて来たお客さんがそうした会食を望んだ時には、日本からの来訪者も含め、ここへ案内して喜んでもらったものです。私の甥が、大学卒業記念という事で友人2人を連れて訪ねてきた際、このレストランでヤンウーセンを食べさせて、3人が唐辛子の余りの辛さに悲鳴を上げて涙を流しながら大騒ぎした光景が思い出されます。

マルコポーロは、広島に本社の在るスポーツ用ボールや自動車用ゴム部品メーカーの前社長だったTさんに紹介して貰った店です。Tさんの会社は、私どもが進出を決めた1995年以前からシラチャで操業を始めておられ、Tさん自身が度々来タイの機会を持っておられた関係上、タイでのビジネスや生活について色々とご指南を授かったものです。多々ある中華料理屋の中で、“最も日本人好みの味付けの店”というのがTさんの推薦理由でした。日本人の好みも様々だとは思いますが、私は今日でもタイへ出掛けた際に利用しています。

 タイ国内の旅行も、バンコックに滞在した時期から合わせ通算6年間に渡り運転手をしてくれたトゥイ君と、彼の奥さんのギャップさんに付き合って貰い、旅行ガイドブック“ロンリープラネット”を頼りに、東へ、西へ、そして北へと大いに楽しみました。

東は、イサーンのコラート、ウドンタニ、ノーンカーイ、ローイエット、ムクダハン、ウボンラチャタニ、シーサケット、スリン、ブリラム、等々を訪れましたが、各々の街での思い出は尽きません。

ノーンカーイやムクダハンで見た雄大なメコン川の景色は、今でも記憶に良く残っています。ムクダハンを訪れたのは、未だラオスとの間の架橋工事が始まる以前でしたが、既に計画は発表されており、ベトナムのダナンからラオスを横断してタイへ至る国際物流ルートが完成した後の経済発展に思いを馳せながら、暫しメコン川の景観を眺めたものです。

シーサケットはスリンとウボンラチャタニの中間に位置する町ですが、ここから南へ向かうと、タイとカンボジアが長年に渡って国境紛争を続けているプレアビヒア寺院が在ります。プレアビヒアというのはカンボジアでの呼び名なのでしょう、タイ人はカオプラウィハーンと呼んでいたように思います。ここも訪ねてみました。

寺院の在る領域は当時もカンボジア領という事で、入り口にはフェンスが張ってあり、カンボジア兵が銃を担いで立っていましたが、パスポートチェックなどは無しに参道へ向かって入って行けました。結構険しい斜面に沿った参道を進んで行くのですが、カンボジアの内戦の後遺症もあって石段があちこちずれたり壊れたりしており、苦労しながら登って行った記憶が有ります。かなりの時間を掛けて頂上に至ると、そこには小規模なアンコールワットを思わせるクメール寺院の遺跡が有りました。この遺跡そのものは立派なものでしたが、それよりも、寺院の在る山頂からの自然の景観が実に迫力が有り見事で圧倒されたものです。寺院の背後には数百メートルは有ろうかという岩の絶壁が落ち込んでいて、これが左右へ向け何キロかに渡って続いており、その下にはカンボジア側の原生林が見渡す先まで広がっていたのです。
国家間の国境紛争は、なかなか決着を見るのが難しいというのが世の常ですが、危なくなければもう一度訪ねてみたい所です。

ブリラム、コラートの先のピーマイという所にも、アンコールワットを小規模にしたようなクメール遺跡が有りました。アンコールワットそのものとは比べ物にはなりませんが、それでもブリラムの遺跡は一見に値し、過ぎし昔にクメール帝国が覇権をこの辺りまで拡げたという歴史を学ぶ機会になりました。

西は、フアヒン、プラチュワップキーリーカン、バンサパン、スラタニ、ナコンシッタマラートとタイ湾沿いに南下し、内陸部を横断してアンダマン海側に至り、クラビー、プケットを訪ねました。その後、アンダマン海沿いに北上してラノーンを訪ね、タイには珍しい温泉の湯けむりとクラブリ川河口の対岸にミヤンマー・コータウンを眺めた後、タイとミヤンマーの国境線であるクラブリ川に沿って内陸部を横断しタイ湾側に出て、バンコック経由でシラチャまで戻る旅でした。

ナコンシッタマラートまで南下したのは、徳川幕府の時代になって職にあぶれた一浪人であった山田長政が、タイに渡ってアユタヤで雇われ兵となり、出世を重ねてシャム王の娘を娶る程まで高位に上り詰めた後、権力争いから、当時もマレー系諸王朝との係争の絶えなかったリゴール(現在のナコンシッタマラート)の王として追いやられ、この地での戦で傷ついた際に治療薬に盛られた毒で殺害されたというストーリーを小説で読んで以来、一度訪ねてみたいと思っていたからです。山田長政と繋がる史跡は何も見当たりませんでしたが、古にスマトラを本拠とした一大海上交易国家のシュリービジャヤ王国の勢力下でリゴール王国として栄えたという歴史を感じさせる、ワット・プラ・マハタートを始めとする仏教寺院や仏塔などの多い静かな町でした。

プケットでは、パトンビーチ等の名の知れた場所を避け、知人がオーナーであるケープパンワ・ホテルに宿泊しました。プケットへ入ってから車で30~40分位移動する途中で、時々見え隠れする落ち着いた休暇を過ごせそうなプライベイト・ビーチを持つホテルを眺めながら、それまでの印象とは違ったプケットを知ったものです。ケープパンワ・ホテルもそんなホテルの一つでした。

プケットを発ち、海岸線沿いに北上してラノーンへ向かいました。途中、ナコンシッタマラートで見たような仏教寺院やパゴダは見当たらず、道路沿いに頻繁に登場するイスラム教の礼拝モスクを眺めながら、この地域におけるイスラム教の影響の強さを感じ取った記憶が有ります。

ラノーンについては、タイには珍しい温泉施設を持つ町という事を知っていたのですが、日程的にこの街での宿泊を組み込めず、街の中を流れる小川に上がる湯けむりを見て納得し、その後、クラブリ川の河口部で対岸にミヤンマーのコータウンが見える公園を訪れ、暫し国境の眺めを楽しみました。

このクラブリ川は、それ自身がタイとミヤンマーの国境となっていますが、この国境沿いの道を上流へ向けて北東方向に一時間余り走り、やがて国境から離れて東へ進み、チュンポーンへ出て国道4号線に乗り、その後はフアヒン、バンコックを目指して進みました。タイの国土の南部で東西方向の幅が狭くなった部分に、アンダマン海からタイ(シャム)湾へと抜ける運河を開発する構想が以前から議論されて来ており、その構想のベースには、この旅において車で走ったタイとミヤンマー国境のクラブリ川渓谷を最大限活用するという考えが有るのだそうです。確かに、この自然の地形を活用すれば、残りのせいぜい50~60?位の陸地を掘削する事で夢の実現に繋がるように思えました。

北への旅は、以前に読んでいた梅棹忠雄著の“東南アジア紀行”を携帯しながら、スコタイ、ランパン、ランプーン、チェンマイ、チェンセン、ゴールデントライアングル、メイサイ等を訪ねました。“東南アジア紀行”は、梅棹さんが1957~1958年に渡り大阪市大東南アジア学術調査隊を率いてタイ、カンボジア、ベトナム、ラオスを踏破された後、1964年に中央公論社から紀行文として出版されたものです。この本は、それから40年近く経過した時点でも実に楽しい道連れになってくれました。

梅棹さんは、ランパン、ランプーン辺りの街道沿いの景観を、古い時代の甲州街道沿いの景色を思い出させてくれたと表現しておられます。私が訪ねた頃も、この辺りの街道沿いには古色蒼然といった表現がぴったりの、しかし外観のしっかりした古民家風の木造2階建て家屋が多く残っていました。ランパンは、古くから北部タイで伐採されたチークの主要な集荷、加工拠点だったようですから、これらの家屋には耐候性に優れるチーク材が多く使われていたのでしょう。街並みに残るこうした古い家屋の醸し出す雰囲気は、私達が子供の頃、そして今ほど自動車の交通量が多くなかった頃の日本の田舎町の幹線道路沿いの商店街の景色を思い出させてくれました。

今一つの記憶に鮮明なのは、ロンリープラネットの中に記述された情報を頼りに訪ねたバーン ライ パイ ガーム(美しき竹の農民の家)の思い出です。バーン ライ パイ ガームは、故センダ バンシッさんといわれる方が、北部タイの古くからの伝統的な染織技術をアートクラフトへと進化させ、近隣の主婦の参画を得ながらブランド力を持つ地域の産業へと育成した工房です。チェンマイ市内から国道108を南へ2時間以上、運転手のトゥイ君が悪戦苦闘しながら探し当ててくれました。

ゲートから入ると、アクセス道路の両側にタイでは珍しい整然とした竹林がしばらく続いた後、急に広い敷地が開け、しっかりとした造りの高床式古民家を含む建物群が現れました。高床式の建物は、故センダ バンシッさんの住居であった建物を使ったパダ・コットン・テキスタイル記念館で、中には古い機織り機やセンダさん自身が染織した作品が展示されており、その他の建物は工房と作品の展示即売場として使われていました。アクセス道路と建物群等の景観が醸し出す雰囲気は、実にゆったりとして落ち着きがあり、タイの地方の素封家とはこんなものかと感じた次第です。

センダさんが生み出したパダ・コットンというのは、特殊な黄色い木綿を草木染にし、比較的目の粗い織物にしたもので、家内が直売場でスカーフを記念に買いました。その折に、お店の方が、日本で開催された“アジアの染織展”にも出展したのだと言いつつ分厚いカタログを見せてくれました。何と、表紙には、平成8年の開催場所が広島県立美術館と印刷されており奇縁に驚いたのを思い出します。

タイの最北ともいえる街のチェンライから、タイ、ミヤンマー、ラオスの三国の国境であるゴールデントライアングル、タイとミヤンマーの国境の町メーサイを訪れたのも忘れられない思い出です。青少年期には日本の中で国境という物を意識する機会が無かったせいでしょうか、海外の国々へ出掛け始めてから、陸続きや川や山の稜線沿い等、様々な姿の国境を訪ねて見る事に興味を持つようになりました。韓国で訪れた南北境界線上の板門店、米国のミシガン州に在住中に度々行き来したカナダとの国境であるデトロイト・リバー、自動車部品産業においてマキナドーラ制度が活用された時代に米国のエルパソを訪問して見たメキシコとの国境のリオグランデ川等、各々に思い出が残っています。

北部タイで見た二つの国境の景色もまた、各々が印象的で忘れ難いものでした。タイとミヤンマーの国境線となっているルアク川がタイとラオスの国境線であるメコン川に合流する地形を眺めながら、ゴールデントライアングルとの名前の由来を納得し、暫くは雄大な川景色を眺め続けました。一方のメーサイは、当時は鎖国状態にあって発展の遅れていたミヤンマーとの国境交易を行っている田舎町といった風情でしたが、橋の向こうのミヤンマーをちょっと見てみたい誘惑に駆られたものです。

タイでの余暇に関する思い出となると、ゴルフについても触れておきたいと思います。
私は、ゴルファーとしては精進が足らず腕前は中途半端でしたし、喜怒哀楽を抑えられない性格がゴルフという競技に向いていなかったのでしょう、記憶に残る戦績の思い出が有りません。それでも、タイでの8年間には、その前の赴任地である米国・ミシガンでの8年間と同様に、友人、知人と親しく交わりながら自然の中で気分転換を図るという楽しいゴルフを大いに満喫しました。

そんな私のタイでのゴルフを振り返える時に、忘れられない二つの出来事に触れてみたいと思います。一つ目は、タイ カントリー クラブの2番ホールでの一打目グリーン直撃事件、二つ目は神様からのプレゼントとも言うべきゴルフ人生唯一度のホールインワン(タナシティー ゴルフ&カントリークラブの13番ホール)です。

バーツショックでタイ経済が大変に疲弊し、自動車業界も沈滞ムードが漂っていた時期(1999年or2000年頃)、日系自動車メーカー全てと取引の有る某社の肝いりで、自動車メーカーの社長、副社長が一堂に会して励まし合い、元気を出そうという趣旨のゴルフコンペが定期的に開催される事となりました。会場は、当時ホンダさんがプロのトーナメントに使っておられたタイ カントリークラブでした。

そのコンペの初回か二回目だったと思いますが、私は二組目でホンダさんの当時のT社長と一緒にプレーしておりました。2番ホールまで進んでティーグラウンドに立ち、一組目の4人がグリーン上でパッティングに集中しているのを確認した後、T社長に教わった狙い所を目がけティーショットを思い切り打ちました。スイングが少し遅れ気味で、球が右目に出たなという感じは有ったのですが、球筋を確認出来ずに探し求めていると、キャディー達が大きな声で叫び始め、直後にグリーン上の4人とキャディーがこちらを振り向いたのです。ボールはグリーンを直撃して奥のグリーンエッジに達したとの事でしたが、幸い誰にも当らずに済んで胸を撫で下ろした次第です。

ちなみに一組目のフォーサムは、当時のトヨタ、イスズ、三菱各社と主催会社の4名の社長さん方だったのです。そんな関係もあって、プレー後の懇親会では、飛距離の話題とともに、右に出たと言うショットが実は狙い目だったのでは等と和やかな冗談も飛び交い、何か救われた気持ちになったのを思い出します。


本件には後日談が有ります。この種の話題はタイのビジネス社会では早々に伝播していたようで、その後にタイカントリークラブで他の方々とプレーする機会が有る度に、2番ホールに差し掛かるとワンオン狙いをけしかけられ、応じてこれを繰り返すところとなりました。随分とトライしましたが、成功したのは、池縁の杭の頭に当たって跳ねたのが幸運にもグリーンに乗った一打を含めて、2回くらいと記憶しています。


ホールインワンは、35年近くのゴルフ人生で1回だけ、2001年2月にバンナ沿いのタナシティー ゴルフ&カントリークラブの13番ホールで経験させて貰いました。当時の13番というのは、池越えでサンドバンカーに囲まれたタフなグリーン、距離は100ヤード少しという短いパー3ホールで、私としてはピッチングウェッジを正確かつ加減気味に打つよう心掛けていました。


当日のパートナーは、取引銀行の当時のバンコック支店長のIさん、マツダの販売会社の社長のUさん、マツダの変速機製造会社の社長のSさんで、全員が広島出身の後輩達という事もあり、プライベートな懇親ゴルフを楽しんでいました。先輩の余裕も有ったのでしょう、13番ホールで理想的な柔らかい球筋のボールを打てたと思ったら、ピン手前1ヤードくらいに落ち少し転がってスーと消えました。神様の下さった幸運な贈り物といった気持がしたのを覚えています。


ただ、このホールインワンは些かタイミング的に問題が有りました。一週間前に、ボードミーティングのため来タイした本社のトップから、本社の経営状況が厳しく、合理化策として2,000人規模の希望退職者を募る事になる旨を聞かされ、数週間後にはその実施が迫っている時期だったのです。2001年の春先といえば、タイで頑張っていた当方は、バーツショックによるタイ経済の混迷から立ち直り、好調な輸出とも相まって業績が上向いていた時期ではありましたが、日本の本社の事情を配慮しない訳にはいきません。幸い、一緒に回っていた3人とも事情は共通していましたので、当日のメンバーへの内祝いは通常以上に丁寧にと約束し、以後は幻のホールインワンとして他言無用扱いにして貰いました。

結びに
 2003年の春にタイを離れてから11年が経過した事になります。その間、4年半程、自動車用プレス金型メーカーの社長、会長を務め、最後の一年間は懐かしい米国ミシガン州で現地子会社の社長に専念した後、2007年の半ばに第一線のビジネス生活を終えました。
2007年の秋以降は、これまで縁の有った米国、タイ、韓国、中国、マレーシア等の知己とのコンタクトを続け、また数社の顧問を引き受けながら、タイを始めとする海外の国々への訪問機会を持って来ました。また、マツダの海外プロジェクトで苦楽を共にした後輩達は、今やタイ、メキシコ、マレーシア、中国、ロシアといった国々で、マツダのオペレーションのリーダーとして頑張っておりますので、出張の機会には彼等を訪ねて元気に活躍する姿に接するのを楽しんでいます。


一方で、私も古希を過ぎましたので、最近の平日は広島の自宅に隣接する畑での野良仕事、週末は親から引き継いだ宮島の家の掃除等で過ごす時間を増やしています。それに合わせ、頭脳労働も多少はという配慮から、過ぎし日の思い出や調べ物を書き留めるよう心掛け始めていましたところ、先輩思いの後輩である怒和さんから、タイで過ごした時期についての回顧録を纏めてはとの誘いが飛び込んで来た次第です。

 その気になって振り返ってみますと、私のタイでの8年間というのはビジネス人生のハイライトだったように感じています。また、米国という典型的な先進国での8年を過ごした直後だったという事情もあって、私生活でも大変に興味深く、強く印象に残る経験が出来た貴重な機会であったと思います。

私が生活を始めた1995年頃と今日を比べると、文中のあちこちでも触れましたように、タイはビジネス面でも生活文化面でも大きく変化し、発展して来ました。


私が良く知る自動車産業に関しては、国内マーケットに焦点を当てた内需型からグローバルマーケットへの生産・供給拠点型へと、構造的な変革がなされて来ています。バーツショックという国家的な経済危機が、この変革を促し、早めるインパクトとして作用し、国家経済のその後の回復、発展に大いなる貢献をする結果となったのは実に皮肉な事であったと思います。こうした流れの中で、1990年代の後半の頃には想定もしていなかった技術的に難易度の高い部品、ディーゼルエンジン用ターボチャージャーやコモンレイル・燃料噴射ポンプ等、までが国産化がなされる段階となり、自動車産業を支える周辺産業の集約度が飛躍的に高まって来ています。


生活文化という点でも随分と発展、向上して来ました。特に、バンコックの交通網等の発達には目を見張る思いがします。BTS(市内高架線)は、私がまだタイに滞在していた時分に開通したのですが、その後のMRT(地下鉄)が開通し、最近ではARL(エアーポートリンク)も利用出来るようになり、19年前に遡った頃の様子と比べると異次元の世界になった様な感じすらします。大型ショッピングモールにしても、エンポリアムが開業した折には凄い物が出来たなと感心したものですが、今日、セントラルワールドやサイアムパラゴンを訪ねますと、広島から出掛けて行く田舎者は正直なところ些か圧倒されます。


パタヤでも、海岸沿いの歩道や南パタヤからロイヤルクリフへ抜ける道路等が整備され、歓楽地から観光地へのシフトが徐々に進んでいるように見受けます。また、街中には大きなデパートも出来て、観光地+居住地といった雰囲気も出て来ているように思います。その点、シラチャは活気が出て賑やかにはなりましたが、路上駐車がやたらと増え、都市整備という点では遅れが目立ちます。あえて挙げれば、海岸道路沿いに出来たジョギング公園くらいが生活文化面での進歩でしょうか。


ただ、こうした生活文化面での発展の様子を見ていますと、上流社会や都市生活者、あるいは外国人旅行者、駐在者等に関わる部分での発展が目立つように感じます。この国が以前から抱える貧富の格差、都市と田舎の格差といった観点から、バランスの取れた取り組みが進められているのかが気になるところです。

一方で、社会、政治という点に眼を向けますと、“王制(国王)”と“仏教と倫理”とに基盤を置いた秩序に支えられている伝統的社会は、20年近く経った
今日でも、依然として本質的には変化無く続いている様に感じます。タイという国が既にグローバル経済社会の一員となり、諸外国との協調と競争に対処して行かねばならない現実の下で、その社会の制度や仕組みの中にも変革を必要とする課題が出て来ているであろう事は想像に難くありません。


タクシン氏については、失脚する原因となった不正や疑惑に関して弁護の余地は無いように思います。しかし、グローバル経済社会への対応という観点から考えると、彼が取り組もうとした市場原理、自由競争を重視した政策、それ に伴う変革の内容については是々非々な評価が必要なのでしょう。絶対多数議席に支えられた宰相として、強引かつ急速に物事を進め過ぎたため、不利な影響を受ける政敵や上流社会からの反発を受け、彼等から不徳を突かれた結果の失脚という事でしょうが、彼が取り組もうとした社会的な課題は依然として残っているのではないでしょうか。


この辺りの問題の背景と今後に対するヒントについては、東京大学教授で日本タイ学会会長の末廣昭先生が、著書“タイ中進国の模索”(岩波新書)において大変に分かり易く纏めておられます。タイ社会において、“社会的公正の道”と“現代化への道”との間の葛藤が生じているのでしょうが、このどちらか一方の選択という事で対立を激化させるのではなく、バランスを取りながら必要な変革を進める現実的な政治のリーダーシップが求められるという事のようです。黄シャツも赤シャツも扇動させぬ様に話し合いと調整をし、伝統的社会からの反発も程々に抑え込み、グローバル社会の中でのタイの立ち位置を確保しつつ発展させて行く、こんな難しい課題に耐えられるエクセレント・リーダーがタイの社会から登場して欲しいものです。

久し振りに、内容と納期に責任を持って書き物を纏める事に取り組みました。タイの思い出を何時の日か纏めてみようと思いつつ、なかなか現実にならず今日に至っていましたが、今回与えて頂いた機会のお蔭で一気に一仕事を終えた気分となっています。あれやこれやと思いだしつつ、懐かしく充実していた日々を振り返るのは大変に楽しい作業でした。
こうした機会を与えて下さった怒和会長に心より感謝し、同時にチョンブリ・ライヨン日本人会の益々のご発展を祈念申し上げます。

以上

     

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